アスペルガー人に愛は理解できるのか /「愛とは、相手を信じ、待ち、許すこと」 ドラマ「スクールウォーズ」より

アスペの魂が震えた言葉集

1984年~85年にかけて放送されたドラマ「スクールウォーズ」は、日本のスポ魂ドラマの最高傑作だと評する人も多い、ラグビードラマの名作です。
独特の演出と世界観で1980年代に一世を風靡した「大映ドラマ」の真骨頂として、現在40代以上の人たちにとっては印象深い作品なのではないでしょうか。
実話に基づくとはいえ大映ドラマ流に誇張された不条理なストーリーと、無慈悲にふりかかる困難を次々と克服して「高校ラグビー日本一」へと昇りつめていく高揚感、そして主人公・滝沢先生の涙と葛藤に、当時の日本国民は毎週アツい思いをさせられたものでした。

このドラマにおける「愛」の定義としてよく登場する言葉に、

「愛とは、相手を信じ、待ち、許すこと」

というものがあります。
これは今なお語り継がれる名言ですが、当時の僕にとっては今一つピンとこない言葉でした。そしてずっとその理由が分からないままでした。
しかしアスペルガーであることを自覚した今になって、やっとその理由が分かったのです。

アスペルガー人は、人を「信じる」ことも「待つ」ことも「許す」ことも、全部苦手です。
かといって自分の心に愛がないとは思っていません。
つまり、僕の中では「人を信じ、待ち、許すこと」と「愛すること」がイコールではなく、だからピンとこないモヤモヤを心の中に残していたのです。

スクールウォーズ的な解釈では、僕は愛を理解できていないということになってしまいますが、決してそんなことはないと思っています。
では実際にアスペルガー人は、愛をどう理解しているのでしょう。

やはりアスペルガー独特の「愛のかたち」が存在するのです。

アスペルガー人が他人を「信じ、待ち、許す」基準と、「愛」との関係

アスペルガー人は、人を「信じる」ことも「待つ」ことも「許す」こともできないわけではありません。
ただ、そこに至るには、ハッキリとした根拠に基づく理由づけが必要です。
アスペルガー人の思考回路はどんな時でも合理性と論理性が根幹にあり、またその臆病で完璧主義な性質から、不確実なものを受け入れにくい傾向があるからです。

アスペルガー人が他人の発した言葉を信じるときは、相手が誰であっても、その人についての情報や性格、過去の言行の一致・不一致の傾向など多方向から分析したうえで、それが信じるに足るものなのかどうかをまず判断します。
よく家族間や仲間うちで求められる「家族だから」「親友だから」「仲間だから」といった関係性だけを根拠に、人の言葉を安易に信じたりはできません。

酒癖の悪い親友の「もう酒飲んで暴れない」宣言や、遅刻魔である恋人の「もう遅刻しない」宣言など、友情や愛情などの特別な感情がある人が相手だからといって、その人の発する言葉全てが信用できるわけではないというのは、誰にでも思い当たることかと思います。
そんな時に普通の人は、たとえ信じていなくても、その人との関係を良好に保ちたいと思うなら、意思に反して信じているフリをしたり、うまく話をごまかして深入りしないようにしたり、相手が変わるのを期待して無理やり信じようとしたりします。

しかし感情表現が直接的すぎるアスペルガー人は、信用していない事柄に対して信用しているように振舞うことは、あまり得意なことではありません。
そして「君自体がどうかというのとは別のところで、君のこの部分はいくら弁解されても行動で示してくれるまでは信用できない」というようなことを相手にストレートに伝えてしまいます。

この表現には「なんとかしてその人を信じたい」という思いがこめられているのですが、信用してほしい側からするとその基準が分からないので「この人は自分を認めてくれていない」というネガティヴな思いだけが強く残ることになってしまいます。
結果、相手からはただ冷たいだけの人間に映ってしまい、場合によっては友情も愛情も壊れてしまうのです。

人を「待つ」ときも「許す」ときも、考え方のプロセスは同じです。
つまり、アスペルガー人は、相手を信じ、待ち、許すことはできますが、相手の感情に寄り添うことが苦手なので、論理的根拠なしにそれをすることはできないのです。
しかも対象への現実的な分析が判断基準なため、相手そのものへの漠然とした感情である「愛」とはリンクし得ないのです。

アスペルガー人にとっての「愛のかたち」とは?

スクールウォーズ的な解釈では僕は愛を理解していないということになりますが、愛というのは人それぞれ、様々な形があるものです。
ではアスペルガー人にとっての「愛のかたち」とは、一体どういったものなのでしょう。

一概には言えませんが、孤立型アスペルガーである僕の場合のそれを端的に表すなら
「相手との関係性の中で自分に与えられた役割を全うすること」
ということになります。
その役割を担い、その成果を相手と共有することで、愛情表現としているのです。

極端な個人主義者であるアスペルガー人は、自分の何かを他人と共有することを、ある意味特別なこととして認識している面があります。
しかも感情表現が乏しく共感力が低いので、感覚的な愛を共有するよりも、このような目に見えてわかりやすい形に頼らざるを得ないのです。

普通の人にとっては何を言っているのか分からないかもしれませんが、「家族を愛し家族のために頑張って働いているのに、 愛情表現に乏しいうえに変に厳しすぎるため、家族からは逆に疎ましがられているお父さん」のような人物を想像していただくと分かりやすいかもしれません。
共有イコール愛、と思っているアスペルガー人(特に孤立型)が家族を持つと、このような状況に陥りやすいといえます。

感覚的な愛を求める人にとっては、物足りなく感じるどころか「それのどこに愛があるの?」と思ってしまうことでしょう。
もちろんアスペルガー人もこれが正しい愛の形だとは思っておらず、感覚的な愛を表現している人たちや、「愛はただ与えるもの」という基本を実践している人を見ては、こうありたいと羨ましく思っています。

極端な二元論的発想が「愛」への理解を遠ざける

アスペルガー人(特に孤立型)の「愛」が理解しにくいもう一つの原因として、それぞれが担う役割の「重要度」や「肉体的・精神的な負担」などのバランスによって相手と上下関係を作ってしまう、というのがあります。
これはアスペルガー独特の「極端な二元論的思考」によるもので、そのバランスによって自分が上になる事も下になる事もあります。

上になったら「この関係を引っ張っていかなくては」というプレッシャーを自分にかけると同時に、相手には自分への服従を要求してしまう傾向があります。
下になったらその逆で、相手への服従を意識してしまいます。

だからアスペルガー人(特に孤立型)は、友人や恋人など、上下関係を作りたくない相手とは、できる限りそういうものを排除した「対等な関係」を作ろうとします。
対等という言葉にはたくさんのニュアンスがありますが、ここでの対等は「平等な役割分担」を意味します。

たとえば家族の関係であれば、父は仕事と家計、母は家事と育児、長男は学業と犬の世話、といったふうに、その集団をいい状態に保つために各々に与えられた役割があると思います。
友人や恋人との関係であれば、相手の希望に応える頻度や、金銭的時間的な負担のバランスなど、付き合いの中で作られていく関係性があるでしょう。

アスペルガー人(特に孤立型)は、そういうものをマイルールのもとで判断し、自分と相手の肉体的精神的その他の負担が、総合的に同じレベルになるような関係を理想としています。
そのバランスは状況により変化するものですが、アスペルガー人がそのバランスに違和感を覚えると変な上下関係を意識してしまうので、相手はますます「愛」を感じることができなくなってしまうのです。

つまり、アスペルガー人の「愛」は、あるにはあるもののマイルールが強すぎて、一般的には理解しにくいと言えます。
スクールウォーズ的解釈は、間違っていなかったのかもしれません。
いつかは愛情深いと言われるような人間になってみたいものです。

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